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【放談】あいちトリエンナーレは燃えているか

新潟県立歴史博物館のサイノカミ2013

 大地の芸術祭コンプリーターのひとりとして、アートを誤解して欲しくないなと思って書きました。芸術監督を嫌いでもアートは嫌いにならなヒャィッ!!

ゆたか:ちょっと旬が過ぎちゃった感じもありますが、津田くんが燃えた(燃えてる)じゃないですか。

ちはや:「あいちトリエンナーレ」だっけ。燃えてますねー。あれは結局どこにつっこめばいいのだ? 調べ始めると沼にはまりそうなのと、現代アートの観点もあわせて見ないといけない点、そして決して答えは出ないんだろうなーと思い至ったので私はスルーでいこうと決めました。そのため全然把握してない。

ゆ:俺もそのスタンスでいくつもりだったのよ。だって津田くんだし。でも、Twitterのなんかの拍子で天皇燃やしてる作品の制作経緯(?)みたいなの見ちゃったのよね。

ち:あった。フォロワーさんに現代アート好きな人が多いから流れてきた……けどスルーしちゃった。

ゆ:詳しくはウィキで。

ゆ:と言っても読まねーだろうから、ざっくりオレ的解釈が入った解説すると……いや、その前に今回問題になってた(なってる)天皇炎上映像はちょっと複雑だからそこから整理していく必要があるかもしれない。

ち:あ、wiki読んでるので勝手に進めといてください。

ゆ:天皇炎上映像関係作品は、実は3つある。Twitterなどで流れてくる情報はこの3つがごっちゃになっていることが多い。

ち:さくっと読んできたでござる。文章が読みにくい。いっそ箇条書きにしてくれたほうが読みやすい。え、3つあるの!?

ゆ:まず1つ目が大浦信行の「遠近を抱えて」。1982から1985にかけて作成されたもの。これは上のwikiで解説されている作品で、自画像として天皇の写真をコラージュしたもの。「自画像がなんで天皇?」って思うかもしれないけど、本人がそういうんだからそうなんだろう、としか俺は思っていない。現代アートはだいたいわけがわからない。アーティストのトポロジー的視点からしたら缶詰も天皇もモチーフとしてそんなに差はないのではないかと思っている。

ち:いい解説だと思います。

ゆ:2つ目は同じく大浦信行が制作した「遠近を抱えて Part II」。これは「遠近を抱えて」のあとに作られた別の作品で、不自由展にあわせて制作されたものらしい。天皇の写真が燃えてく映像はこの作品。

本展覧会を契機に制作された『遠近を抱えてPartII』においては、作品を燃やすシーンが戦争の記憶にまつわる物語のなかに挿入され、観る者に「遠近を抱える」ことの意味をあらためて問うものになっている。

大浦信行 | 表現の不自由展・その後

ち:「遠近を抱えて」は平面作品、「遠近を抱えてPartII」は映像作品??

ゆ:俺も作品を見に行ったわけじゃないからはっきりとは言えないけど、そうっぽい。

ち:情報も出てないからそのへんは詳しくわかりませんねぇ。

ゆ:それな。で、この「Part II」はなぜ天皇が燃える映像になってるのかって話なんだけど。

ち:「富山県立近代美術館」が購入・収蔵した「遠近を抱えて」10点(連作なのかな?)が右翼団体・神社関係者から非難され、作品と図録の非公開・処分を求められた(wiki調べ)、というあたりへの反骨? アンサー作品的な? 

ゆ:ショユコト。1986年に富山県立近代美術館で開催された「富山の美術 ’86」をめぐるいろいろの中で、「遠近を抱えて」を収録した図録が焼却処分されたらしいのね。そのあたりはこの記事が詳しい。なんかの冊子に掲載されたものを転載したものっぽいけど。

ゆ:あの天皇が燃えていく映像は図録が焼却処分されていくのを表現していると思われる。そもそもの「遠近を抱えて」の天皇は自画像であるから、あの映像は「自画像が焚書された」ということを揶揄していると解釈するのが自然ではないかと。まあ、解説読んだわけじゃないから実際はどうかわからんけど。ただ、状況証拠を積み重ねるとそうである可能性が高い。

ち:これまでの「遠近を抱えて」の流れを知ると、ちょっと印象が変わってくるぞ!

ゆ:だよね。で、3つ目の作品が嶋田美子の「焼かれるべき絵」。1993年に制作されたもの。天皇と思われる人物の顔の部分だけ焼かれた写真のやつがこの作品。これが「遠近を抱えて Part II」とごっちゃになっていたりする。

ち:違う作者でてきたー!

ゆ:まあ、モチーフも経緯もpart IIと似てるからごっちゃになりやすいところだとは思うんだけど。この作品は「遠近を抱えて」の騒動にインスパイアされて制作された作品らしい。

ち:「自画像→日本人である自分→天皇をコラージュ」した(と推測できる)「遠近を抱えて」に対して「焼かれるべき絵」は政治的意味合いが強く出てる作品っぽい?

ゆ:んー、まあ、完全にないとは言い切れないけど、この作品はどちらかというと図録の焚書に対する批判という意味合いが強いんじゃないかと思う。制作年が1993年であるということを考えても。

さらに富山県立近代美術館へ抗議の意を示すアクションも付随し、そのトータルで作品を構成する。本展では、焼いた過程の写真、館へ送った灰や文章、封筒、返事なども併せて展示する。

嶋田美子 | 表現の不自由展・その後

ち:こちらも元の「遠近を抱えて」騒動がなかったらできなかった作品なのか。そこに作家の作風が合わさった結果、より政治的に見える作品になったのかな。

ゆ:この人の主な作品を見るともともとそういう反体制の気質があったのかもしれないとは思う。

ち:なるほど異なる3つの作品がごっちゃになってるのか。もうどれを見たのかすらわからない。

ゆ:そうなの。しかも、制作の経緯を読み解けば政治的な思想とは別のところで制作されているっぽいことがわかる。まあ、実際のところはわからんけど。で、なにが言いたいかって言うと「津田、ちゃんと説明しろよ」ってこと。

ち:政治的メッセージではなく、表現への自由、弾圧への抵抗を表した作品群であった。知ると知らないとじゃ印象違ってきますなー。あとさ、「あいちトリエンナーレ」と「表現の不自由展」の関係性がわからないのだが。「表現の不自由展」という展覧会があるわけではなく、「あいちトリエンナーレ」内の一部?

ゆ:俺もそんなちゃんと調べたわけじゃないから違うかもしれないけど、「大地の芸術祭」の中の「方丈記私記」的なポジションだと思われ。ワンテーマで作品集めて展示してるやつ。空き家で作家集まって展示してたヤツとか、ああいう感じ。

ち:行っててよかった大地の芸術祭。イメージできました。

ゆ:で、繰り返すけど「津田、ちゃんと説明しろよ」に尽きると思うんよ。

ち:そもそも、津田さんのポジションはどこなの??

ゆ:大地の芸術祭におけるフラム。

ち:そんなに総括してる立場なのか! トップじゃん!!

ゆ:「表現の不自由展」って題してるんだから、公開するのが難しい作品であることはわかってるわけじゃん。誤解を受けやすい作品であることはわかってるわけじゃん。そのわりに全然説明が足りてないんだよ。どういう経緯でこの作品が作られ、どういうふうに(誤解され|解釈され|規制され)、どういうふうに撤去されたのか。その説明を怠れば、過去に展示されたときと同じように燃え上がるのは自明だよね。

ち:ニュースとかTwitterだけ見てると「天皇制反対!」「日本死ね」的な作品なんだと思ってたけど、もっと芸術や美術、表現の自由のために戦うメッセージ性の強い作品だということがわかった。ちょっと知るだけで全然印象が違う。

ゆ:そう、俺も最初はそう思ってました。「またやってるわ」くらいの印象だったわ

ち:私、天皇は不可侵、安易に芸術に持ち込むのはあんまり……政治色の強い作品・作者はあんまり……という感じで平たく言うと好きではないんだけどさ、好きではない = 無関心になれるけど、脊髄反射で攻撃的になる人もいるわけじゃない? で、天皇とか慰安婦像とかを展覧会で扱うってのは、その危険性をはらむことは火を見るより明らか。このご時世にこういうのをやるってのは炎上商法なんじゃないかと勘ぐってしまうのですが。それが予想以上に燃えすぎたんじゃないのかと。

ゆ:単純に津田くんの認識が甘いだけだと思う。そういうセンシティブな作品だからこそ「不自由展」なんだろうし、だからこそ、どういう経緯でこの作品が作られ、どういうふうに(誤解され|解釈され|規制され)、どういうふうに撤去されたのか、という説明を丁寧にすることが求められるんだよ。「燃えるヤツ出ますギャハハ」とか言う意識でやってりゃ燃えるわ、としか言いようがない。モアブログ書け。

ち:それによって他の作品もマイナスイメージになってしまうのももったいないな。

ゆ:極個人的な意見を言わせてもらうと、作品偏りすぎ。最初っから燃やすつもりだったでしょっていうラインアップだよ。この中に置かれたら「遠近を抱えて」が誤解されるのも仕方ない。モアブログ書け。

ち:うーん、いかにも政治色が強すぎて(という印象を受けて)「あ、かかわらんどこ」ってなっちゃう。ここまで直球だと嫌悪感が。

ゆ:そう、プロパガンダだと言われてもしょうがないラインアップだよ。実際そういう意図がなかったとしても、多くの人はそう感じるであろうことは最初からわかるだろっていう。

ち:全体の中にちょっとあるだけなら自然なんだけど、ここまで集められるとちょっと濃すぎる感じがする。

ゆ:この中にろくでなし子作品がひとつあるだけでも全然印象変わってくるのに。

ち:ただ純粋に表現を求めている感じはしてくる。

ゆ:展示全体のバランスの話だよ。「表現」を掲げるなら、展示全体のバランスに気を使う必要ある。過去に取り下げられたり拒否されたりしてるなら余計にね。でも、それってすごく難しいと思う。そして津田くんはそのバランス感覚に欠けていたと言わざるを得ない。

ち:なるほど展示のバランス感覚。

ゆ:あとさ、アートって、とくに現代アートって、知識なし、感性オンリーで成立するとか思ってんじゃないかな。これも個人的な意見になっちゃうけど、むしろアートって知識なしで理解することは難しいと思っているんだが。その作品が制作された時代背景や作者の置かれた立場、それまでの作品の変遷などを知らないと正しい理解はできないと思う。たとえばキュビズムを知識なしに理解することができる人間がどれくらい存在するのか。

ち:「感性オンリー」の感覚、そう言われると作品が偏るのも合点がいく。キュビズムのくだりもわかりやすい。貴様、何者だ!

ゆ:ただの元高専生ですすみません。ピカソのキュビズムはアインシュタインの相対性理論のようなものだと言えば、一般人にはほとんど理解不能であることが理解いただけるのではないだろうか。

ち:残念なことにキレッキレのピカソの絵(何が描いてあるのかわからない絵)と、なんの知識も経験もなく適当に書き殴ったものが似てしまうのである。それを「現代アート」と言っている作品も少なくないと思われる。※全部が全部じゃないし、後世で評価される場合もあります

ゆ:科学の世界ではそれを「健康食品」という。水素とかめっちゃ入ってる。(入ってない。)

ち:あぁ〜水素の音ぉ〜! あれ、もしやこの「水素の音」を集めて映像化すれば、その時代背景を表したアートになるのでは……!?

ゆ:次回の大地の芸術祭に出せばいいと思うよ。

ち:芸術馬鹿にしてんのかああん!?

ゆ:いや、いいんだよ。アートを身近に感じさせるというのも大事だよ。要はTPOなんだよ。水素の音なんてそんなセンシティブなもんでもないし、ラフに楽しめばいいと思う。でも、「不自由展」とか銘打ったセンシティブなものを同じような感覚でラフに扱ったら燃えるでしょ、って話ですよ。あと、モアブログ書け。

ち:取り扱い注意。

ゆ:元々炎上芸人みたいなところあるから、これでなくても遅かれ早かれ燃えたような気もするけどね。

ち:そもそも、なんで津田氏がやっているのかという問題。

ゆ:あいちトリエンナーレ自体がひとつのパフォーマンスアートなのではって思うよね。「あいちトリエンナーレ 〜津田くんの表現が不自由展〜」

ち:これはもう社会現象と言っても過言ではない。津田氏、さすがだな。これさ、天皇だから日本国内で炎上してるだけなわけじゃん? これが国際的な炎上案件だったらと考えるとやばいよね。てか、そもそも「遠近を抱えて」には政治的意図はなかったのに、今回の展示の面々の中に入れられることによって政治的意味合いを想起させてしまう現象が発生してるのか。パッケージングによって意図しない見え方になってしまう。

ゆ:そう、そういうことなんだよ。それは「遠近を抱えて」に限らず、ほかの作品についても同じことが言えると思う。個々で見ればあまり気にならなかったことが、作品の集め方で強くなったり弱くなったりする。だからバランスが難しいんだよ。今回に関して言えば津田くんの表現が不自由なんだよ。

ち:もしかして……そこをうまく調整していく人が必要なのでは!?

ゆ:モアブログもろくに書けないやつがそんなことできるとは思いませんね。のへ先生のほうがよほどちゃんとやると思うよ。最後の時までモアブログ書いてたし。

ち:一戸先生、ぶれないからな。そのスタンスは大事。

ゆ:思い込んだら試練の道行くところあるよね。今度NSMCに津田呼んでしくじり先生させて。

ち:で、これどう終わらせればいいんだ……

ゆ:つまり、この話で俺が言いたかったことは「モアブログを書け」ということです。

ち:モアブログの説明をしようとググって読んでたら、のへ先生のブログだった件について。

ち:新潟日報が有料会員向けに鳴り物入りで津田氏を起用したものの、数回しか更新がなかったという過去があります。新潟県民は! 忘れない!!(だれも覚えていない)

ゆ:俺は覚えているぞ。

ち:以上です!

ゆ:モアブログもろくに書けないヤツを俺は信用していない。

ち:以上です!!

宗教右派とフェミニズム

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