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炎症性乳がんだった祖母を看取った話

Date 2016/06/16 21:12  Modified date 2016/06/19 Author chihaya  Tags におい 医療・福祉 腕時計
伸縮する時計のバンド

 もう6年前になりますが「炎症性乳がん」という、乳がんの中でも珍しい種類のがんで祖母を亡くしました。当時のことを思い出しつつ、発症から最期までをまとめてみました。

はじめに:珍しいがん、炎症性乳がん

炎症性乳がんの特徴と症状

 乳がんと聞くと胸にしこりができるイメージがありますが、炎症性乳がんは胸部の皮膚が腫れるのが特徴です。乳がんの中では非常にまれで、発症率は乳がんのうちの1〜数%と言われてます。

炎症性乳がんは,まれな乳がんの一つです。通常,しこりはみられませんが,腫瘍のある乳房の皮膚が赤くむくみ,夏みかんの皮のように毛穴が目立つようになります。熱感も伴い,あたかも乳房に炎症があるような症状であることから,このように呼ばれています。皮膚の赤み,熱感は,がんがリンパ管に広がってリンパ管をふさいでしまうために,皮膚のリンパ液の流れが悪くなって起こるとされています。
炎症性乳がんと診断されました。治療はどのように行いますか。 | 患者さんのための乳がん診療ガイドライン – 日本乳癌学会

 乳がんという名前が付いていますが、最初に症状が出るのが胸のあたりのためそう呼ばれているだけで、どちらかと言えばリンパ管・リンパ節のがんに近い印象があります。
(※素人の考えなので、正しくない場合があります)

 がんの進行が非常に早いこと、リンパ管に関係しているため転移や再発する可能性が高いことから予後の悪いがんとして知られています。しかしながら抗がん剤や放射線療法、そして手術を合わせることで生存率は向上してきているそうです。

2010年当時、炎症性乳がんについての情報はほとんどなかった

 祖母が炎症性乳がんを発症したのは2010年のこと。当時はネット上には炎症性乳がんについて詳しく書かれているサイト・ページはほとんどありませんでした。ときどき、なにかの会報に載っていたであろう患者さんが書いた手記や個人ブログがあるくらい。それでも充分ありがたい情報でした。

 ネットの次に頼りにしたのは図書館の本。私が住む新潟県長岡市では、市内にある図書館の蔵書は全てキーワード検索ができるようになっていたため、たくさんの本の中から炎症性乳がんについて書いてある本を探すことができました。
 ですが、市内の図書館じゅうの蔵書を探しても、炎症性乳がんについては乳がんの専門書一冊の中で数行触れられているのみ、またはほとんど記載なしという本が多かったです。

 2010年当時は苦戦した情報集めですが、現在ではがん関連のサイトや個人ブログの闘病記も増えたことで、情報は格段に集めやすくなったと感じます。

一番参考になった本

 乳がんの専門書にすらほとんど情報がない炎症性乳がん。そんな中で一番参考になったのは「朝まで生テレビ!」でおなじみの田原総一朗氏の妻である田原節子氏の著書でした。

遺書―笑う乳がん闘病記

  • 著者/訳者:田原 節子
  • 出版社:集英社 ( 2004-10 )
  • 単行本:253 ページ

 炎症性乳がんの発症、再発、そして最期を迎えるまでの心情が細かく綴られています。「内容が暗い、重い」というレビューもありますが、患者さんやその家族が読むと明るく前向きな印象を受けると思います。症状がまとまっているわけではないのですが、他に情報がない中で田原節子さんの本は非常にありがたい存在でした。

発症から最期まで

 ここからは祖母の様子や症状などを時系列で書いたのち、詳細を後述していきたいと思います。日付は祖母のつけていた日記と私のスケジュール帳を照らし合わせて書きました。

病状と経過

 祖母はほぼ一人暮らしの状態だったため、叔母の家に身を寄せている期間は自宅療養の期間ととらえてもらうと良いです。実際の入院期間は2週間程度と短かったです。

  • 2月24日:かかりつけの町医者で血液検査
  • 3月1日:町医者に祖母と叔母の2人で受診、そのまま総合病院を紹介され検査
  • 3月3日:病院で注射と切開、5針縫う(※生検だと思われる)
  • 3月5日:病院で傷口を診てもらう
  • 3月9日:病院で胸の病気と言われる(※祖母には最期までがんとは告げず)。別の病院を紹介される。以降、そちらの病院に通院。
  • 3月15日:祖母に患部(胸)を見せてもらう。赤く腫れているのを確認
  • 3月25日:叔母宅に身を寄せる。強い痛みあり。
    • このあと1ヶ月ほど叔母宅に身を寄せる。初期は痛み止めの副作用で吐き気や嘔吐あり。その後は経口薬と座薬を併用。4月のはじめには経口薬(錠剤)のモルヒネ処方。4/15からはテープ剤(体に貼るタイプ)のモルヒネ使用開始。合わせて頓服として経口薬の痛み止めを使用。
  • 4月5日:孫が集まり、担当医師に話を聞きに行く
  • 4月20日:近所でお花見、車からの移動などは徒歩
  • 4月25日:車いすで屋外へ。立ちくらみを起こす。わきの下のリンパ節に腫れと痛みあり。腕にむくみが出る
  • 4月30日:痛みを訴える。入院へ。
  • 5月2、4、6日:病院へお見舞い。食欲もあり、痛みも抑えられている様子
  • 5月14日:お見舞いへ。テープ剤のモルヒネがかなり大きいサイズになる。ぼんやりし、会話が難しくなる。腕、足に激しいむくみ
  • 5月16日夕方:血圧が低下し、家族・親族が呼ばれる
  • 5月17日:日付が変わってすぐに逝去

 祖母は82歳と高齢だったため、手術等の積極的な治療はせず、痛みを取ることを中心とした緩和治療のみを受けました。とはいえ最初の通院から3ヶ月ほどで永眠。非常に進行が早かったです。

 以降は各時点での詳細や気付いたことなどを書いていきます。

発症・受診:2月の末

 祖母とは住まいが別だったため、発症してすぐの様子・症状は叔母から後で聞いた形です。「胸の辺りが赤く腫れた」ということで、まずは自分でかかりつけの町医者へ。その後、総合病院を紹介され、通院・検査をしていたそうです。

 私が祖母の通院を知ったのは3月に入ってから。3/15に患部を見せてもらったのですが、胸の上あたりの部位が赤く、少し腫れたようになっているのが確認できました。サイズとしては手のひら二つ分くらい。胸の上全体をほぼ覆う感じです。
 この時、診察に付き添っている叔母はすでに病名を知っていたのですが、私はまだ聞かされておらず。実際に患部を見ても「湿布かなにかでかぶれたんだろうなー」と楽観的にとらえていました。福祉・介護系の仕事に従事しており、一般の人よりも医療に詳しい母もかぶれだろうという認識でした。

 祖母が最初に異変に気付いた時期はわからないのですが、たぶん年が明けてから、2月くらいだったのではないかと思います。3月の頭には腫れは胸全体に。祖母は高齢のため、これでも発症から患部が広がるまでの期間は遅い方だと思います。
 若い人だと胸の上あたりに赤い発疹を発見、虫刺されかと思って放置しているうちに、数日程度(3日というのも読んだことあり)で胸全体に広がることもあるそうです。

「炎症性乳がん」と診断:3月9日頃

 総合病院で生体検査(生検:患部の細胞の一部を採取して、顕微鏡で調べる検査)を受けた結果、「炎症性乳がん」と診断されました。
 自分が病名を聞いたのはもうしばらく後になってからだったのですが、胸に出る湿疹、進行して炎症部位が広がっている点、そして叔母から聞く症状・検査内容から、ネットで得た知識で炎症性乳がんか乳房パジェット病(ページェット病)のどちらかではないかと予測できていました。

 祖母の日記をみると、祖母の子供(私の父と叔母)と一緒に病院に行った記録が。病名がわかってすぐに積極的な治療は行わない等の方針が決められたのだと思います。

紹介された病院・転院の記録

 最初はかかりつけの町医者、その後は総合病院の「長岡赤十字病院」(通称:長岡日赤病院)で検査、そこで炎症性乳がんと診断されました。症例が少なく、診断が付きにくいといわれる炎症性乳がんですが、祖母はすぐに病名がわかったようです。そして診断が出た直後に「長岡西病院」に転院となりました。

  • かかりつけの町医者
  • 長岡赤十字病院(検査・診断)
  • 長岡西病院(通院・入院・看取り)

 転院先の長岡西病院には炎症性乳がんに詳しく、治療経験が豊富な医師がおり、その先生が祖母の担当になりました。また、終末医療(ターミナルケア)に力を入れており、ホスピス(緩和ケア病棟・ビハーラ病棟)が設置されているという点も考慮されたのだと思います。
 「近いうちに入るかもしれないから」と、母と叔母はビハーラ病棟の見学にも行ってました。日本国内では珍しい仏教系の緩和ケア病棟のため、遠方から来る患者さんも少なくないそうです。

医師に直接話を聞きに:4月5日

 通院に付き添っている叔母からの又聞きだと詳細がわからないこともあったため、親族の中で時間の取れる人(主に孫)が集まり、医師に直接話を聞きにいく機会を作りました。こちらからも質問ができ、気になっていることや現在の病状、今後考えられる症状などを詳しく聞くことができました。

  • 病名は炎症性乳がんであること
  • 強い痛みが出る病気であること
  • 今後、発疹部分から浸出液やにおいが出ること
  • 今まで診てきた患者さんの様子
  • 今まで診た中で一番ひどかった症状

 ステージや余命等ははっきりと言われませんでしたが、「進行が早いがんなので、そんなに長くは……高齢ですし、長くても本人がつらくなりますので、ね。」という感じで、やんわりと余命が短いことを告げられました。自分もわかっていたので詳しくは聞かず。最初の頃に叔母は「お盆くらいまでがひとつの目安ですかね」と言われたことがあるようです。(治療しない状況では、発症から半年程度が目安なのかもしれません。)
 話を聞いた後は用紙に代表者の氏名、続柄を書いて帰ってきました。

 憶測なのですが、かなり年輩の先生ということもあり、私が住む地域で炎症性乳がんに罹患した人の多くは昔からこの先生に診てもらっていたのではないかと思います。衛生状態が良くない時代のことだとは思いますが、ちょっとショッキングは話もありました。痛みのほか、やはりにおいや浸出液が大きな問題となってしまう病気のようです。

痛みと鎮痛剤、モルヒネについて

 3月下旬に急に強い痛みが出て、緊急外来に駆け込んだことがありました。それ以降は薬がないと痛みを抑えられない状態に。薬が切れかけると「バンバンと張るような痛みを感じる」と祖母は言っていました。

 激しい痛みが出始めた初期(3月下旬)は痛み止めの副作用で吐き気や嘔吐の症状があり。その後は経口薬と座薬を併用するように。4月のはじめには経口薬(錠剤)のモルヒネの処方が開始され、副作用である便秘の症状が強く出ていました。
 4月15日からは体に貼り付けて鎮痛成分を皮膚から吸収させるテープ剤・フェンタニルパッチ(貼り付けタイプのモルヒネ)の使用を開始。テープ剤はがんによる疼痛・激しい痛みがある患者や嚥下障害などでモルヒネの内服が困難な患者に用いられるそうです。また1回貼れば約72時間(3日間)持つ持続性も特徴。祖母は腹部に貼っていましたが、上腕部、大腿部に貼る場合もあるそうです。

 最期に近い頃は、かなり大きなサイズのテープ剤が貼られていました。

胸部の腫れ

 3月15日に胸部を見せてもらった時は、胸の上あたりが赤くなっている感じでしたが、4月の初めのころには胸全体、そして首、わきに伸びるように患部が広がっていました。ただれやかぶれのようだった患部は少し盛り上がり、炎症性乳がんの特徴である、肌がオレンジやはっさくの皮に似た腫れ方をする「オレンジ皮様皮膚」または「橙皮状皮膚」の状態に。患部の色は赤-暗めの濃い赤色・紫に近いような色。毛穴の部分だけは膨らまず、より目立つようになるのでオレンジの皮に似た凸凹とした見た目になります。また、腫れた部分は意外とカチカチとして硬い感じになっていました。

 この頃は患部から浸出液が出るようになっていたので、患部に塗り薬を塗ったあとは吸水パッドのようなものを当てて浸出液を吸わせるようにしていました。悪化すると浸出液とともに血液も出ることがあるそうですが、祖母は透明-黄色っぽい浸出液だけでした。

わきの下のリンパの腫れ、手のむくみ

 4月の末にはわきのリンパ節が大きく腫れ、(転移なのかはわかりませんが)しこりのように丸く大きくなっていました。触ると痛みがあるそうで、座っている時などは肘掛けに腕をのせてわきに当たらないように。それと同時に腕や手にむくみが出てきて、伸縮性のバンドに替えた腕時計も付けられなくなりました。

病状の説明とがん告知

 世代的に「がん = 死」のイメージを持っている点、また通常のがんとは症状が違うことから、最期まで祖母にはがんとは伝えませんでした。

 痛み止めの副作用で吐き気が出ることや便秘になることはわかりやすく説明、流れ出る浸出液を見て「なんでこんなに出るんだか……」と滅入っている様子だったので、「膿みたいなものだから、中にたまっているより外に出るほうがいいんだよ」という感じで(若干のうそも混ぜつつ)話して安心させていました。
 農村部の貧しい家の出だった祖母は読み書きが苦手だったため、薬の説明書きは読めず。副作用についても読み上げてわかりやすく説明する必要がありました。当時は「こういった説明は子供がすべきで、孫の仕事ではないのではないか」と少し苛立ちを覚えたりもしましたが、親ががんになればそこまでの余裕はなくなってしまうのだと思います。うそも混ぜていましたが、それについては今でも後悔はしていません。私の説明を聞いて安心した様子の祖母の姿は強く印象に残っています。あのとき自分にできた一番のことだったのかな、と思います。

入院:4月30日

 ゴールデンウィークに入る直前、「痛みが強い、このままだと我慢できなそう」ということで急遽入院することになりました。モルヒネによる痛み止めは不安感があると効きにくくなる傾向があるそうです。たぶん、祖母は連休に入り、病院に行けなくなることへの不安が大きかったのだと思います。

 入院後は安心したのかわりと元気に過ごしている様子でした。しかし次第に薬が増え、テープ剤のサイズが大きくなるにつれてぼんやりとした感じで反応が薄くなり、徐々にですが会話が難しくなっていきました。
 5月14日にお見舞いに行った時は、「○○が来たよー」と名前を言うとうなずいてわかっている様子、帰り際に声をかけると手を振ってくれる素振りがありました。食事は自分の手ではとれなくなっているものの、食欲はあるようで、口元まで運ぶとほとんど残さずに食べてくれていました。こんな感じは息を引き取る前日の夕食の時まで続きました。

逝去:5月17日0時過ぎ

 最初の受診から3ヶ月、入院から2週間ほど経った日、夕食を食べたあとに血圧が低下したため家族・親族が呼ばれました。一度集まったものの、今夜は持つだろうということで一度解散に。

 しかし夜中近くになって体温、心拍数が低下。肩呼吸から下顎呼吸になり、次第に呼吸の回数が減り、そして一回の呼吸の間が長くなっていき。
 他の親族は間に合いませんでしたが、病院に残っていた自分は祖母の最期を看取ることができました。下顎呼吸の兆候が出て、個室に移ってから1時間ほど。長くなる呼吸の間、これで最後か、と思う呼吸が数回。しばらくして来た担当医による確認。死とはこんなにも静かに訪れるのかと思うほど、非常に穏やかな最期でした。

葬儀

 深夜に逝去、そして六曜の関係で通夜・葬儀までに3日ほどかかりました。病院でのエンゼルケアの段階で胸の所にはパッドが厚くあてられていたようです。また、ドライアイスも胸のあたりに置かれていました。まだそれほど暑くない時期のわりにドライアイスが多く使われていた印象。そのおかげか、火葬まで日数がかかりましたが、線香以外のにおいを感じることはありませんでした。

 がんはやせ細って亡くなるイメージがありますが、闘病期間が短く、そして最後まで食欲のあった祖母は元気な頃の顔そのもの。近所の方も「全然変わらないね」と驚いていました。

闘病中のにおいについて

 心配していたにおいですが、叔母宅での療養中、入院中、そして最期を迎える時まで、腐敗臭・刺激臭のような強いにおいを感じることはありませんでした。
 しこりができる乳がんでも、皮膚までがんが浸潤している進行性乳がんの場合は炎症性乳がんと同じように浸出液やにおいが出ることがあるそうです。

まず、皮膚表面が赤くなります。硬い塊(硬結)やしこりとして触れることもあります。そのうち皮膚表面にびらん(ただれ)ができて、次第に潰瘍を形成し、患部がジュクジュクしてきて浸出液が滲み出したり、出血したりするようになります。潰瘍から出る浸出液に、トリコモナスなどの嫌気性菌や真菌が感染すると悪臭が発生します
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 患部そのものよりも、細菌に感染してしまうかどうかでにおいの有無、強さが違うようです。祖母の場合、闘病期間が短かったこと、そして暑くなる前だったのも良かったのかもしれません。

余命 (新潮文庫)

  • 著者/訳者:谷村 志穂
  • 出版社:新潮社 ( 2008-11-27 )
  • Kindle版:280 ページ

 ドラマにもなった小説「余命」。以下ネタバレを含みますが、乳がんが再発した主人公は治療を受けずに出産することを選びます。出産後、自宅を訪れた友人(医師)がにおいで乳がんを放置・悪化していることに気付く場面がありますが、たぶん皮膚まで進行したがんが発するにおいに気付いたのだと思われます(炎症性乳がんに関係あるかと思って読みましたが、普通の乳がんの話でした)。

 あえて言うならという程度なのですが、薬の臭いなのか、溶剤のような独特のにおいをわずかに感じました。でもけっして強いにおいではないので、ほとんどわかりません。家族内で気付いたのもにおいに敏感なほうの自分だけです。
 その後、別の機会に乳がんの人(たぶん炎症性乳がんの人)と会う機会があったのですが、その時も同じ臭いを感じたので、炎症性乳がんに関係するなんらかのにおいなのだと思われます。

最後に:まとめ

伸縮する時計のバンド
祖母が使っていた時計。普通のベルトから伸縮ベルトに替えました。

誰かのお役に立てれば幸いです

 祖母の逝去してから6年。当時情報がなくて困ったこと、そして数少ない体験談が参考になったこと思い出し、いつかまとめたいと思いつつもなかなか書けずにいました。親族の目に触れることもあるかも、と考えてしまったり、書き始めてみるものの当時を思い出してつらくなったり。でも今回やっと書き上げることができました。

 まとめるにあたり、あらためてネットで情報収集をしましたが、今はいろんなサイトがあり、当時との情報量の違いに驚きました。そして役立ったのが祖母の日記と自分の手帳。記憶は残っていても、それがいつだったかというのはけっこう忘れてしまってます。毎日日記を付けていた祖母に感謝です。

 そんな感じで、最後まで暗いのもなんなので。「そういえば七回忌ってしないの? うちの親族忘れてない??」というわずかな疑問を残しつつ、祖母の闘病記を締めくくりたいと思います。

参考

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